2020年1月22日水曜日

ガチャポン新シリーズダンゴムシ

先日手に入れた
オーシャン・ジャスパーと
和菓子を西端さんの
銘々皿に乗せてみました


これはガチャポン
新シリーズのダンゴムシ
雪の模様のようなものが
背中に印刷されていて
これが邪魔なので

スクレーパーとナイフで
削り落とした


上は去年のダンゴムシ
今年のものより
かなり大きい
模様は自分で
色付けしたもの

こちらは
今日の作業の一部

琵琶の改造修復も
だいぶ進みました

端材はこうなった

2020年1月21日火曜日

2020年1月19日日曜日

工房の様子 そして今日の収穫 

工房の様子
修復中の琵琶


こちらは製作中の
ビウエラとクィンテルナ
響板と裏板の
接ぎ接着完了


そして
今日の収穫
三木市の画廊
風らんで見付けた
オーシャンジャスパーと
貝殻の首飾り


2020年1月16日木曜日

左甚五郎について


左甚五郎について
ちょっと調べている
講談や落語でも有名ですが
おもしろおかしく
脚色された部分が多く
また左甚五郎作とされる
彫物が300年間にわたって
存在しているので
実在の人物ではない
と主張する人もこれまでいた

ところが、実は左甚五郎は
七代続いていて
三代までは左甚五郎を
冠していた
初代は左甚五郎利勝
二代、左甚五郎宗心
三代、左甚五郎勝政
四代、左利右衛門利正
五代、左利平忠能
六代、左喜代蔵
七代、左忠義(光挙)
光挙は上に紹介した本の著者

初代左甚五郎は
日光東照宮の他に
寛永の江戸城大改修にも
参画していますが
そのときには義理の父であり
師でもある甲良宗広の
添棟梁として加わっていた
ということも判っている
ということは本業は大工で
有名な彫物は
余技だったことになります
これらのことは
今までまったく知らなかった

上の「名匠左小刀」と
この「左甚五郎の事跡と
その後」という本は
左甚五郎の九世七代にあたる
左光挙という人が
数十年に亘る研究の成果を
昭和の中頃に
世に問われたもの

現在、インターネット上で
Wikipediaなどで
書かれていることは
ほとんどが
この左光挙氏の著書を
参考にされていて
没年以外はほぼ
同じ内容になっています
初代左甚五郎の出身地は
播州明石(兵庫県南部)で
幼名は刀禰松(とねまつ)
その後、飛騨高山(岐阜県)
を経て京都伏見で修行し
江戸に赴いています
先に述べたように
そこで江戸城の寛永の
大改築に加わっていますが
そのときは義理の父であり
大工の氏でもある
甲良宗広の添棟梁として
参画しています
これらのことは
「生駒家士分限録」に
記録されていて
これも事実のようです

その後、江戸城の大改築に
加わったことで
内部機密を知っている者を
消す、という幕府の計画
により、暗殺されそうに
なったため、四国の讃岐
高松(香川県)に亡命し
生駒家にかくまわれました
その際、左宗恵と
改名しています
このことも記録があり
確かなようです

これは有名な
日光東照宮の眠り猫

改修前の状態


杉板に描かれた猫

滋賀県園城寺
閼伽井屋の龍

京都祇園祭りの
鉾山の飾り鯉

埼玉県吉見観音の虎

鳥取県西橋寺の波兎

これは手許にある
江戸時代の彫物、波兎
もちろん左甚五郎
ではありません・・

和歌山県紀州東照宮の鷹

鳳凰に桐の寄木彫刻

これは初代左甚五郎利勝作と
伝えられている獅子の墨壺

画像上は初代作
獅子の香合
下左は四代作
獅子の香炉
右は初代作
獅子の香炉

二代作とされる墨壺

この部分は江戸時代初期
黒川道祐とい人が書いた
遠碧軒記という見聞雑記で
初代左甚五郎について
少し書かれています
ここでは左甚五郎は
栄徳の弟子と説明
されていますが
これは間違いで
左光挙氏は、左甚五郎の
堂宮彫刻の下絵の師である
狩野孝信の父、狩野永徳
と混同しているのであろう
としています
因みに左甚五郎の大工の師は
京都伏見の禁裏大工棟梁
遊左法橋与平次

左甚五郎の家系図


左家の墓碑についての説明

左甚五郎の歌碑

これは左甚五郎のとは
関係がありませんが
以前、明月神社のところで
紹介した江戸時代の
近畿の大工組織の様子
参考までに・・