2020年8月16日日曜日

ガチャポン カエル 猫


ガチャポン福福フクラガエル


ゆらゆら揺れるので
揺れるものと一緒に
動画UPしました。



こちらは、ネコの
天上天下唯我独尊
龍と組み合わせて
龍虎Ryuko

この刀の鍔も龍虎図
虎は銀象嵌され
龍は真鍮と金で象嵌され
稲妻⚡として表現されている





これはコウモリの縫いぐるみ

怠惰な検査官



お盆の行事も終わりました

2020年8月15日土曜日

江戸時代の描かれた楽器

これは昨日紹介した江戸時代の画家
岩佐又兵衛勝以が描いた屏風絵の一部です。
ケースに入れられた三味線が描かれています。

全体図

これも岩佐勝以が描いたもので
琵琶法師が描かれています。
この琵琶も黒漆塗りと思われるケースに
入れられています。


同じく琵琶法師図。
これも黒いケースに入れられています。


これは鎌倉時代後期(14世紀)
に描かれた琵琶法師
(東北院職人歌合絵巻)。
これもケースに入れられているようです。
白いのが気になります。
岩佐勝以はこれを参考にしたのでしょうか。
布の袋に入れられた琵琶が描かれているのが
一般的と思っていたのですが
このようにケースに入れられたものが描かれているのは
大変興味深いところです。

さて、この琵琶も江戸時代初期の画家
岩佐又兵衛勝以が描いたものですが
かなり異様な琵琶です。
撥が当たるところを保護するための
撥面の位置が覆手(bridge )の下側にあり、
鶴首(neck )の形状もおかしいし、
柱(fret )のサイズも違う。
これはどう見ても楽器を見ずに描いているとしか思えません。
ということは、これはかなりの規模の工房で描かれ、
描き職人(弟子や息子など)も
多人数であったことが想像されます。
興味深いところです。

これは通常の琵琶です。

異様な琵琶が描かれている全体図
(といっても、絵巻物の一部です)。

鍬形蕙斎が
描いた琴師の工房の様子


喜多川歌麿が描いた琵琶
絃の張り方が
三味線のようになっている
実際にこういった琵琶が
あったのだろうか・・

人倫訓蒙図彙で
紹介されている
琴師の工房の様子
この琵琶も絃の留め方が
三味線のようになっている

この絵も同様

こちらの琵琶は
本来の留め方だが
絃を留めている
覆手の形が異様で
三日月形になっている


異様な楽器といえば、この楽器もかなりおかしい。
説明は「寛永、正保の頃の古画なり。
胡弓の古製と見るべし。胴丸く、弓短小にして
今と大いに異なる也。和漢三才図絵に胡弓は
南蛮より始まる、と見えたり。この図の古製蛮絃に近し。」
と書かれています。
通常、胡弓の胴は三味線同様四角ですが、これは丸い。
絃倉の転手の位置も逆。弓の形状もかなり違う。
それから、この絵が胡弓弾いているところならば、
弓を当てている絃の位置が駒bridgeの下側というのもおかしい。
おそらくこれも想像で描いたものと思われます。

いろいろ調べていたら、
イランの民族楽器ケマンチェ
という、よく似たものが見つかりました。
右の三絃のものは胴が丸く糸巻きの位置も同じ。
おそらくこれが描かれたのでしょう。

参考までに鈴木春信が描いた三絃の胡弓。

北斎の娘、應為酔女筆の署名がある三曲合奏図。
この胡弓は四絃。江戸時代中頃に四絃になったとされています。因みに、北斎の娘、應為(おうい)の署名は通常「應(応)為榮(栄)女」ですが、稀に「榮女」が「酔女」と書かれたものがあります。酔狂でそうしたのでしょうか・・

同じ構図の無銘の絵。
イアタリア、ジェノバのキヨッソーネ東洋美術館所蔵。

2020年8月14日金曜日

江戸時代初期の鉋

 

この絵は江戸時代初期の画家
岩佐又兵衛勝以katsumochi が
描いた番匠(大工)ですが
使われている道具のなかの
ヤリガンナ(槍鉋・鐁・鉇)が興味深い。


日本刀のような形状ですね。

こちらも。

そして、この図は同じ時代の
画家、狩野吉信によって描かれた職人図に描かれているヤリガンナ。
岩佐勝以の絵と同様です。
また、台鉋も描かれているのも興味深い。
一般的に、このように描かれて残っている歴史資料から
台鉋が使われるようになったのは
室町時代中頃ではないか、とされていますが、
正倉院に所蔵されている木工作品を見ると
台鉋を使わなければ出来ないようなものは多く見られます。
ですから、奈良時代には台鉋はあったと言えるのではないでしょうか。
このことは以前にもブログで述べましたので参照下さい

2020年8月10日月曜日

画家、中村正義による写楽の考察


先日紹介した画家、中村正義は、日展を脱会し無所属の頃江戸時代の画家、東洲斎写楽の研究にも没頭していて、
その研究の成果として
1970年(昭和45年)「写楽」と題してノーベル書房から出版されています。

写楽については古今様々な研究者によって説が
公表されていますが、画家の視点で述べられているものは皆無ということが中村正義は不満だったようで
自ら名乗りを上げてしまったのです。

中村正義がまず主張したことは
写楽は北斎など他の画家による
代筆ではないということ。
そのことを細かく的確に指摘しています。これらの事例には、
なるほどと納得させられてしまうのです。

まず、これは東洲斎写楽の歌舞伎絵の部分ですが、
手や足の描き方はたいへん難しく、類型的になりがちで、誰かがこれぞといった
描法をあみ出すとそれを踏襲するのが普通になってしまう。と中村正義は述べています。
これなどは画家ならではの見解、と感心します。

ですから手や足の描き方には、これが写楽であるという
決定的なものはないが、足の第一関節の盛り上がりなどは
写楽独特のものを感じていたようです。写楽が描く耳はさらに凡庸でむしろ、これはマズイとも言っています。

ただし、目や眉の描き方は多様で、特に目の描き方には写楽独特のものがあると指摘しています。
写楽の絵は刷り物がほとんどで
寛政六年(1794年)に10ヶ月ほどの期間で140数点作られたとされていますが、
それらの目の描き方はすべて違っている、と言っても過言ではないほど多様だったと
中村正義は述べています。

しかし描法は一貫していて、目の輪郭を薄墨で描き、
上まぶたの線だけ濃い墨を入れ下まぶたは薄墨だけか、または全く描かない。

それから、これは首の後ろ、うなじの
毛の生え際に数本描かれた「おくれ毛」

これは写楽独特のものだそうです。



また、中村正義は1969年
(昭和44年)45歳のときに
徳島県を訪れていますが、
その時に取材に協力してくれ新聞記者が
写楽の画集をめくっていてこの絵を見て、当時の阿波踊り名人である姓億政明氏にそっくりだと驚いたのだそうです。

この人が姓億政明氏YouTube動画ご覧下さい。
リンクした動画は2003年のもののようですが
動画の説明によると姓億氏79歳の頃。中村正義が取材した年は1969年ですから
当時姓億氏は45歳頃となります。
さっそく姓億氏に会わせてもらったら、お互いにビックリだったそうです。
写楽の絵を見せてもらった姓億氏はこんなものは初めて見た、と自分の専売特許を取られたように驚いたということです。
その後、取材でいろいろ徳島の人に会うと写楽の絵に似ている人が多いのに驚いたそうです。


それから、阿波(徳島県)の
人形浄瑠璃の木偶(デク・deku)を見て、その多様さと表情は写楽の絵にそっくりだと
中村正義は指摘するのです。


これらのことから、写楽は一般的に言われているように
徳島県出身ということは間違いないだろうと結論付けます。
ただし、江戸時代の文献「浮世絵類考」に記されている
「写楽、俗称斎藤重十郎兵衛八丁堀に住す阿波候の能役者也」
という記述には疑問を呈し、この記述は浮世絵類考の
成立時にはなく、幕末慶応四年の最後の改訂版
「新増補浮世絵類考」にしか見られないのはおかしいとするのです。
それから、浮世絵類考の他の役者で絵を描く俳優・中村慶子の項では「歌舞伎役者・中村富十郎なり
画を善くして英慶子と画号す」と記載されている例を挙げ、
写楽が能役者もやっていた画家なら、そのように説明されているはずである、ともするのです。

阿波藩の資料では寛政四年(1792年)の「御役者」の
最後の項に、江戸詰めの斎藤十郎兵衛の名があり
「徳川礼典録」の文化十三年(1816年)の能番組に
万作弟子斎藤十郎兵衛という記録があるそうですが、
これらの名と写楽が同一人物とするのは早計であるとしています。

加えて、能役者という読み方も
漢文読みで「役者をよくする」と読む方が正しいのではないか、とするのです。
同じような例として、実際に江戸時代の記録に能相撲と書かれているものがあり、これは
「相撲をよくする」と読み下します。
ですから、もし仮に写楽が
斎藤十郎兵衛であったとしても
能役者ではなく余興などで
役者をよくする者くらいの意味ではなかったかとするのです。


そこで中村正義が注目したのは、写楽が描いている着物の柄で


このような着物の柄を描く数人の専門家に
見てもらったところ、かなり熟練した職人でなければ
このようには描けない、と口を揃えるのだそうです。

この絵の袖口に数本引かれた平行線は
写楽独特のものだと中村正義は指摘しています。
それから、柄の描き方が蒔絵のように見えるのものが
あるのも写楽独特のもので、中村正義はそこに注目します。


中村正義は徳島を訪れたときに、たまたま
その地の篤志家にこの蒔絵makieの印籠inrouと

この硯箱suzuri-bakoを見せてもらい、
写楽はこの蒔絵の下絵師だったのではないか、と直感するのです。
とくにこの梅の木の枝や花の描き方は写楽独特のものがある、
と指摘しています。
このあたりは画家らしい発想で、興味深いところです。
この印籠と硯箱は観松斎作と
伝えられているものですが
この蒔絵師は徳島、阿波藩の
お抱えだったようです。

画像左は観松斎作の印籠、
右は写楽が描いたもの。
この二つの柄の描き方の
共通性を中村正義は指摘しています。

これは写楽が描いた着物の柄の上に
観松斎作の印籠を重ねて撮影されたもの。
これにも共通性があるとしています。
その他に中村正義はいろいろと
つぶさに比較しているのですが、
署名の字体や落款rakkan、
花押kaouにも
共通性を見出しています。
これらのことから、写楽が若い頃は
阿波の観松斎蒔絵工房の一下絵師だったと結論付けるのです。
これは説得力があります。

最後にこの絵は、中村正義が写楽の肉筆画である、と極めたものですが
写楽の作品はほとんどが刷り物(版画)で
肉筆画は描かなかった、とされていることにも、
同じ画家としてそのようなことはあり得ないと反論するのです。
以下の絵は中村正義が写楽の肉筆画と極めたもの。


これは扇に描かれたもの。

当時、新発見とされた「阿波にわか(阿波踊りの原形)」の肉筆画。
これも中村正義は写楽が描いたものに間違いない、としています。

中村正義が写楽が描いたと極めた版本、黄表紙の絵。
これは写楽版画を出版した蔦屋が写楽版画を出す以前に出したもの。
中村正義は蔦屋が写楽を見出だして
最初に与えた仕事だろう、と推測しています。