「古代の製鉄」の著者は、播磨(はりま)地方に散見される兵主(ひょうず)神社はアメノヒボコと関わりがあるとしていますが、その説に疑問を投げかけている研究者もいます。兵主神社はアメノヒボコの本拠地である但馬(たじま)に多くあるので、アメノヒボコと結び付けたくなるのは当然ですが、前回述べたようにアメノヒボコを受け入れなかった播磨国に兵主神社が存在する以上、無理があります。では、この兵主神とはいったいどんな神かということになるわけですが、その名を冠した神社が但馬に多く存在し、アメノヒボコと関わりがないすれば、それ以前からの鉄の神だったということになります。このことに関して、日本の古代祭祀の研究者である真弓常忠氏は、幕末の国学者である小山田與清説を見直す必要があるのではないかとしているのです。與清は「史記」の封禅書に記されている「兵主(神)は蚩尤(しゆう)を祀る、蚩尤は東平陸監に在り、斉の西境なり」という一節から、
兵主神は中国の武神である蚩尤であるとしているのです。「五帝本紀」では蚩尤は最も乱暴な武士で、鉄沙をもって兵器を作り、黄帝軍をさんざん悩ました、と記述されているほどですから、武神でもあり、鉄の神とされたのは当然かもしれません。
兵主神は中国の武神である蚩尤であるとしているのです。「五帝本紀」では蚩尤は最も乱暴な武士で、鉄沙をもって兵器を作り、黄帝軍をさんざん悩ました、と記述されているほどですから、武神でもあり、鉄の神とされたのは当然かもしれません。
「穴師anase兵主神の源流」の
著者、皆神山すさ氏は
蚩尤はシュメール語のシムグが
源であるとし、朝鮮では朱蒙
であるとしています。
また、河童・カッパのことをヒョウスベとも言いますが、これも兵主(ヒョウズ)から派生した言葉だとし、湖沼鉄と関連付ける説もあります。
真弓常忠氏は、兵主はヘシ、あるいはベシとも通じ、その言葉が東南アジアの鉄を意味する語である以上、兵主神は南方系海洋民によって運ばれ中国にも渡ったのではないかと推察されるのです。ということは、アメノヒボコ以前の古代但馬には、サルタヒコかニギハヤヒ勢力が居を構えていたということになり、但馬からは銅鐸が多く出土しているので、サルタヒコ集団の可能性が大きいということになります。
真弓常忠氏は、兵主はヘシ、あるいはベシとも通じ、その言葉が東南アジアの鉄を意味する語である以上、兵主神は南方系海洋民によって運ばれ中国にも渡ったのではないかと推察されるのです。ということは、アメノヒボコ以前の古代但馬には、サルタヒコかニギハヤヒ勢力が居を構えていたということになり、但馬からは銅鐸が多く出土しているので、サルタヒコ集団の可能性が大きいということになります。
上に紹介した蚩尤は異様な容貌をしていますが、先代旧事本紀には
人皇・天皇の容貌が書かれていて、
初代天皇の神武天皇は身長が3m以上あり、頭に9cmほどの角があり長い尾も生えている。
また、二代目の綏靖suizei天皇には背中にウロコがあり、怒ると逆立つ。
七代目孝霊天皇は顔が長く龍のようで耳は逆立ち、その耳の後ろに白い鱗(うろこ)がある。また、胸にも9枚の鱗があり、
その九つの隙間から気を放っている。
十代崇神天皇は身長は1m90cm
額に10cmほどの青い角が1本ある。
下アゴの歯は長く鋭く上アゴの歯は短く丸く舌は長く鼻にまで届く。
十一代垂仁天皇は身長1m80cm。髪は右曲がりに頭を9周するように生え、頭頂部で輪のように巻いている。
また、両脇の下には金と緑の羽を持ち、肘にも同じような羽が根ざしていた。
とあります。
人皇16代・応神天皇の容貌。身長3mほど、目は弓を張ったような形、胸に72本の牛の尾のような青毛があり、長さは馬の尾の如し、とあります。
人皇17代・仁徳天皇の容貌。身長2.7m、耳は眉の上あたりから口の下に垂れ、足の指は長く手の指の如し。
これらの記述を見ると蚩尤や神武天皇などはレプタリアン系の
宇宙人のようにも思えます。
以上のことは古事記や日本書紀には書かれていませんが、不思議なことにサルタヒコの容貌は日本書紀に「鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いている」と記されています。
この記述は先代旧事本紀のサルタヒコの記述とほぼ同様なのです。
これはいったいどういうことでしょうか・・
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