日下(くさか)という地名や語源については様々に考察されていますが、古事記でも序文で、「姓(うじ)の日下を玖沙訶と謂ひ、名の帯を多羅斯(たらし)と謂ふ、かくの如きの類は本に随て改めず」と断りを入れているほどですから、古事記が編纂された当時(8世紀)でも特別な読み方だったようです。
最初に古事記の注釈書を書いた江戸時代の本居宣長は、「かくの如きの類とは、長谷(はつせ)、春日(かすが)、飛鳥(あすか)、三枝(さきくさ)などなり」と注釈をしています。三枝は現代では「さえぐさ」が一般的ですが、考えてみれば、
春日、飛鳥などなぜそう読むのか不思議といえば不思議です。
日下という読み方については、ニュージーランドのマオリ語「クタカ」の転訛であるという説(参照)や、アイヌ語で読むと意味が通じるという説もあります(参照)。
日下を素直に読むと「ひのもと」なのですが、これは日の本とも書くことができ、日本となります。倭(やまと)が日本という国名になったのは7世紀頃とされていますが、三国史記の新羅本紀では、670年の記録に「倭国が国号を日本と改めた」とあります。また、中国の文献である旧唐書(くとうしょ)や、旧唐書を宋の時代に改めた新唐書に記されている「日本」は、神武が東遷する以前の、物部氏(ニギハヤヒ)が河内に築いた日下のことであるという説もあります。そうすると、日下を「くさか」ではなく「ひのもと」と呼んでいた可能性も否定できないということになります。
最初に古事記の注釈書を書いた江戸時代の本居宣長は、「かくの如きの類とは、長谷(はつせ)、春日(かすが)、飛鳥(あすか)、三枝(さきくさ)などなり」と注釈をしています。三枝は現代では「さえぐさ」が一般的ですが、考えてみれば、
春日、飛鳥などなぜそう読むのか不思議といえば不思議です。
日下という読み方については、ニュージーランドのマオリ語「クタカ」の転訛であるという説(参照)や、アイヌ語で読むと意味が通じるという説もあります(参照)。
日下を素直に読むと「ひのもと」なのですが、これは日の本とも書くことができ、日本となります。倭(やまと)が日本という国名になったのは7世紀頃とされていますが、三国史記の新羅本紀では、670年の記録に「倭国が国号を日本と改めた」とあります。また、中国の文献である旧唐書(くとうしょ)や、旧唐書を宋の時代に改めた新唐書に記されている「日本」は、神武が東遷する以前の、物部氏(ニギハヤヒ)が河内に築いた日下のことであるという説もあります。そうすると、日下を「くさか」ではなく「ひのもと」と呼んでいた可能性も否定できないということになります。
たとえば、「山辺の道」は「やまべの道」と訓むこともできますが、倭名類聚抄では「夜萬乃倍」と訓が付けられています(紹介サイトをCtrl+Fキーで「夜萬乃倍」の文字検索をして下さい)。つまり当時は「やまのべの道」と訓んでいたことになります。また、この「山辺の道」というのは、古くから奈良県の三輪山周辺から北に伸びる道を指していたということです。ということは、日下も「くさか」ではなく「ひのもと」と訓んでいた可能性が高くなります。このことから、古事記序文で「日下を「くさか」と謂うのは元の読み方に従った」と書かれているということは、古事記編纂の頃には「ひのもと」と訓んでいたことも考えられます。
そうすると、古事記編纂以前に訓まれていた「くさか」は神武東遷以前、ニギハヤヒ族が河内に居住した地に付けられた地名、あるいは氏名だったということになります。
ニギハヤヒ族は最初に日本に渡ってきた地は九州の宇佐地方と思われますので、神武の東遷と同様にニギハヤヒも九州から大阪湾まで東遷してきたという説を裏付けることにもなるのです。因みに、物部氏(ニギハヤヒ族)発祥の地は佐賀県神埼郡一帯ともされています。
そうすると、古事記編纂以前に訓まれていた「くさか」は神武東遷以前、ニギハヤヒ族が河内に居住した地に付けられた地名、あるいは氏名だったということになります。
ニギハヤヒ族は最初に日本に渡ってきた地は九州の宇佐地方と思われますので、神武の東遷と同様にニギハヤヒも九州から大阪湾まで東遷してきたという説を裏付けることにもなるのです。因みに、物部氏(ニギハヤヒ族)発祥の地は佐賀県神埼郡一帯ともされています。
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