鵜丹谷uniyaという姓があるということを耳にして、新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)に記載されている鵜濡渟命ujunu-no-mikotoを連想した。
ウェブ上では先代旧事本紀を引用して鵜濡渟をウカツクヌと読ませているが、これは間違いで、ウカツクヌは宇迦都久怒と書かれている。おそらく先代旧事本紀編纂のときに書き換えられたものと思われる。古代文献の漢字の当て字はあまり重要なことではなく、発音の方が重要。
明治時代に栗田勤氏が上梓した新撰姓氏録考証では
鵜濡渟は鸕濡渟となっている
新撰姓氏録に記録されている姓には読めないものも多く、古代文字研究家の高橋良典氏は鵜濡渟はインドのウジャインのことだとしている。
他にも伊利斯沙禮斯イリシシャレシ、田利須須タリスス、など取り上げたらきりがない。
新撰姓氏録は、平安時代初期、815年(弘仁6年)に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑とされていますが、それに牛乳のことが記されています。
孝徳天皇(在位645年~654年)の時代に善那zennaによって牛乳が献上された、とありますが善那は呉(中国)から渡来した知聡chisouの子とされています。
再現された酥(蘇)
新撰姓氏録ではその後、酥soをほぼ全国にわたって献上させていたことが記されています。酥は生バターとされていますが、このことは言い換えれば、この時代にそのような食習慣を持った民族が天皇になったとも言えます。
孝徳天皇が即位した645年は歴史上の重大事件である「乙巳の変isshi-no-hen」から始まる大化の改新が行われた時代です。乙巳の変での蘇我入鹿soga-no-iruka殺しのクーデターから以後の一連の出来事は、実は日本での事件ではなく、当時の朝鮮半島の新羅で起こった毗曇hidonの乱を借りてきた歴史であるという歴史家・鹿島曻kashima noboru氏の主張がありますが、この新撰姓氏録の記述はそのことを裏付けることでもあります。
また、663年の白村江の戦いで日本(当時は倭と百済)が唐・新羅連合軍に敗れた事件も現在では軽く理解されている程度ですが、実は敗戦後、唐と新羅により日本は完全に占領されているのは間違いなく、そのことの裏付けにもなるのではないでしょうか。
昭和天皇(現上皇)が「日本の皇室は朝鮮半島とも深い関わりがある」と発言されたのも、そのことの裏付けでもあります。
白村江の戦いでの敗戦後、天智天皇~天武天皇~皇極天皇(女帝)と続きますが、もちろんこれらの人物も朝鮮半島からやってきた、ということになります。その後の藤原時代ももちろんそうです。
もう少し付け加えますと、鹿島曻氏は、大化の改新に関わった中臣鎌足(後の藤原鎌足)は三国時代の新羅の将軍・金庾信yushin(595年 - 673年)であるとしています。この人物は近代で言えば、日本を占領したときのマッカーサーといった立場の人物とも言えます。
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