前回述べた猿田彦命と
天宇受売神を
天宇受売神を
インドの古代インダス遺跡
から出土した
から出土した
そして踊り子
とされる像
このことは以前HPでも
述べたことなのですが
(参照 最後の段)
上の二枚の写真と
同様の人骨が
同様の人骨が
日本の弥生時代の遺跡から
出土しているのです
佐藤矩康氏は神官像の
額の丸いものを
額の丸いものを
天目一箇神
(あまのまひとつのかみ)
(あまのまひとつのかみ)
の由来ではないか
としていますが
この説は説得力があります
この説は説得力があります
上の神官像の額を見て
現在でも日本で
同様のものが見られるのを
ふと思い出したのです
同様のものが見られるのを
ふと思い出したのです
これが、本来何のために
額に付けたのか
分かっていないようですが
額に付けたのか
分かっていないようですが
これはインダスの神官像が
付けいるものの
名残ではないでしょうか
付けいるものの
名残ではないでしょうか
同様のものが弥生時代の
人骨に見られのです
人骨に見られのです
もしそうだとすると
九鬼家と
繋がっていくのです・・
九鬼家と
繋がっていくのです・・
6 件のコメント:
いろいろ調べていると面白いことがわかりました。
役小角が大赦により701年に配流先の伊豆大島から大和国に戻った際、文武天皇より黒色の冠を下賜されたのが始まりです。
12因縁にちなみ12のヒダを持ち中心が開いてます。
役小角の能力を封じるためチャクラを隠すように額につけ、更なる修行ができるようにしたものだそうです。
また、黒は無色を意味し、修行の妨げにならないような色になっています。
修行者の服装は不思議ですね。
六波羅蜜を表す6ケのボンボン(結袈裟)
5鈷鈴と金胎の曼荼羅を表す鈴懸など。
神仏のご加護を身に着けて修行するんですね。
源 信正
貴重な情報をありがとうございます。
奇遇にも、役小角(えんのおづぬ)については次回
すこし触れなければと思っていたところです。
頭巾(ときん)が役小角の超能力封じのために付けられた
ということは、逆に、インダス神官の額のチャクラに
付けられている青銅リングは超能力を増幅させるための
ものだったのかもしれませんね・・
九鬼家発祥の地である熊野にしても、役小角の本拠と
される大和の葛城山にしても、超能力を持った人物(神官)
が山に入った本来の目的は、鉱脈探しだったということは
明らかなようです。
弥生時代の人骨
頭蓋骨がへこんでいる位置が一番頑丈なオデコの部分でなく
ヒビが始まる頭頂部にあることが注目点ですね。
長期間の圧迫があった証拠でしょう。
死後に圧迫したのであれば、圧迫した品物が同時に発掘されると思われるし、頭蓋骨を固定するような埋葬法になり、かなり無理がある、また、骨折すると思われる。
したがって、生前に長期間の圧迫する品物を装着されていたのであろう。
頭布でなく、戦士あるいは支配者の象徴 兜または冠 かもしれません。
古代韓国ドラマでは鉢巻の種類で冠位を象徴しているようですので、銅の合金のエンブレムを死後そのへこんだ部分に装着し
たのかもしれません。
発見された人骨の冠位を象徴するようなものについては、副葬物は何かなかったのでしょうか?
源 信正
島根県の古浦砂丘遺跡
http://iseki.ipc.shimane-u.ac.jp/search_detail.php?id=3318&page=8&search_kbn=age&siteagegroup%5B%5D=40&target=site
それから
鹿児島県種子島の広田遺跡
http://inoues.net/study/kanaseki.html
からも、人骨の身分が分かるようなものは
出土していないようです。
その点が、最古の王墓とされる福岡県の
吉武高木遺跡の墳墓との違いなのです。
http://museum.city.fukuoka.jp/je/html/271-280/277/277_01.htm
地域によって様々な埋葬法があるのですね。
たぶん同じ地域でもその時代の政治形態(統治者)の違いによって変わっていくものでしょうね。
今私たちが見ているお葬式(お墓)にしても、戦国時代以降と和尚さんが言っていました。
その現存してるお墓も勝者のもので、敗者のモニュメントはお墓でさえも破壊されています。
キヨンドさんの地元の国宝の姫路城の建設時には、石垣の材料が足りなくて、古墳時代の石棺までもが掘り起こされて使われています。
神として畏れ崇められる存在になってはじめて、地元の神社になり現存できるようです。
1000年後2000年後現在の歴史はどのように子供たちに伝えられてるのでしょうか。知りたいものです。
源 信正
古代インダスでも顕著な階級がなく、王などもいなかったようなのです。その点はエジプト、メソポタミア、黄河文明などと大きく違っています。
弥生時代の日本は様々な文明の波の影響を受けていますので、地域によって違いがあるのだと思います。
モヘンジョダロ、ハラッパーなど、古代インダスの都市は焼きレンガで造られていますが、これだけの膨大なレンガを焼くための燃料をどうやって調達したのかも謎とされていて、紀元前2600頃突然のように現れ、800年後に忽然と消えているのです。
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