昨日の続き(参照)
猿田彦命といえば、銅鐸と深い関係があります
銅鐸は青森県ではまだ出土していませんが
その青森県と猿田彦はどういう関係だったのでしょうか・・
話がちょっと脱線しますが
この画像の左側の銅鐸に施された流水紋は
隼人紋にも似ています
隼人紋については以前HPで
述べたことがありますので
参照(九段目)下さい
これは兵庫県神戸市から
出土しているものですが
同様の流水紋が見られます
そしてこの流水紋は
この古代ギリシャの壺
これはアフリカ大陸から出土した土器
上の2点は古代ヨーロッパの出土品
これは紀元前1400年頃とされる
ギリシャ・クレタ島の遺跡
ここにも隼人紋と同様の
文様が描かれています
こういったことから、猿田彦命とされる
サルタヒコは隼人族の長だったことも
考えられるのですが
先にリンクしたHPでも紹介しているように
サルタヒコはカルデア人であるという説が
浮上してくるのも
無理からぬことのようにも思えるのです
これはHPでも紹介している
北海道から出土している
縄文時代の土偶ですが
これにも隼人紋と同じものが見られます
ということは、海を隔ててはいますが
そのすぐ南の青森県にも
同様の文化があったとしても
不思議ではないのでは
と、無理に青森県とサルタヒコを
繋ごうとしているのですが
(青森県にある有名な縄文時代の巨大遺跡
三内丸山遺跡から出土している
土偶や土器などには
現在のところ確認されていないようです)
これはまったく無理なことではなく
根拠は充分にあるのです
時代は弥生時代(前期)になりますが
青森県には砂沢遺跡という
水田耕作跡が発見されている
遺跡があるのです
リンクしたページでも説明されているように
不思議なことにこの水田跡は
「弥生時代の水田としては
東日本ではもっと古く
世界史的に見ても
最も北に位置する水田跡」なのです
しかもこの遺跡から出土している土器は
遠賀川式土器なのですね
これには驚かされます
遠賀川式土器と水田耕作は
セットになっているので
青森県の砂沢遺跡はその
典型的な例と言えます
時代は弥生時代前期
(新・時代区分では紀元前8世紀頃)
また弥生時代に出現した銅鐸は
水田耕作とは深い関係があるので
当然、サルタヒコとも繋がっているのです
サルタヒコの第二の本拠地とも言える
滋賀県高島市に鎮座する
水尾(みお)神社で発見された
「水尾(みずのお)大明神本土記」には
「時に天レイ暦五十七穂歳サナエ
苗月サナエの日なり」
と記されていて
それを紹介している松重楊江氏は
「サナエの日」とは銅鐸を鳴らす日の
ことであろうと推察しています
川崎真治氏の説によると
サルタヒコのサルは「米」のことで
タは文字どおり「田」のこととしています
つまり、サルタは
稲田ということになるのです
米のことをシャリと言ったりしますが、
これは元々は、米のことを
ウル語やシュメール語では「シェ」
バビロニア語や古代インド語では「シャ」と
言っていたことに由来するということです
私が今住んでいる丹波篠山は
銅鐸文化圏と思われますが
この地では田植えが終わると
「サナブリ」という祭りが行われます
亀山古墳がある志免の地では
「サナボリ」と言います
以下は棟方志功の装丁による
英語版 能・善知鳥の台本の挿絵入翻訳本
これが戦後間もない
昭和22年に刊行されたことに
驚いてしまいます
これはさらに古く
昭和5年に子供向けの読本として発行された
新訳・平家物語読本 著者:佐藤一英
来年、平家琵琶を製作するので
平家物語を復習中・・
挿絵の作者は記載されていませんが
この絵の鳥が棟方志功風なのが興味深い
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