匠家必用記上巻から
七章と八章の
読み下しを紹介
間違いなどありましたら
ご教示願います
七章 尉(じょう)の家書弁
俗間に番匠の宮社の棟札を書するに、何兵衛尉、何左馬尉と書者あ り。今按ずるに、官職備考曰、佐馬尉は大従六位に相当り、 置正七位上に相当る。左兵衛、右兵衛尉は従六位下に相当たらず、 正七位上相当る、とあれば、無官無位の人みだりに尉の字を用いる 事あらず。
八章 藤原姓氏の弁
俗説に唐土(もろこし)漢の明帝の時、天竺の番匠、漢とに来り。 始て番匠の術を弘む。此時、明帝甚仏法を信じ給ふ故に、番匠互に 命じて一宇を建立し給ふ。号て数改寺と云、後に白馬寺と改、 山号を藤原寺と云故に、日本の番匠の皆藤原姓也と云。又一説に、 日本の職人は何職によらず、藤原の姓氏を名乗といへり。今按ずる に、藤原山の号を以て藤原の姓氏とする事附会の妄説信ずるにたら ず。本朝藤原の姓と申は、唐土より渡りたる姓氏にあらず。
俗説に唐土(もろこし)漢の明帝の時、天竺の番匠、漢とに来り。
人皇三 十九代天智天皇八歳大職冠鎌足(かまたり)公に、帝より藤原姓氏 を賜。鎌足公は神代天児屋根命二十二代の神孫、中臣御食事大連( なかとみ みけじ おおむらじ)の御子也。きうせ(旧性)は中臣を改て藤原の姓を賜 り、内大臣に任じ給ふ、是藤原の始也。故に此御子孫末葉に限りて 藤原の姓氏也。他の人は是を名乗事にあらず。 然を其姓ならざる番匠、己が姓を捨て、 みだりに藤原を名乗は他の姓を盗むの罪也。若(もし)
此事をしらずにして藤原を名ののば早く改むべし。諸職人も又同じ 。譬ば清和天皇の御孫、六孫王経基公血脈ならば源姓也。 桓武天皇の皇胤高望(たかもち)王の血脈を平の姓と云。天太玉命 の神孫也ば忌部の姓也敏達天皇の御孫、井出左大臣諸兄公の血脈を 橘の姓といふ。平城天皇の御孫、備中守基主の血脈を大江の姓とす 。孝元天皇の皇子、太彦命の血脈は
安信(安倍)の姓也。 天智天皇の後胤、夏野公の末葉を清原の姓と云。 皆それぞれの血脈を以て、姓名をわかる事也。 いかに末世になりたればとて、他姓を以て家姓名とする謂あらんや 。愚なりとも是等は弁へ(わきまえ)しるべきこと也。又世俗、 源、平、藤、橘の四姓の外には、姓氏なきやうに覚る人有。是此事 をしらざるの謂也。万多親王の姓氏録に千百八十二姓出たり。 又此後も姓氏有。
今又四姓の外、その一、二をいう時は菅原、 春原、有原、永原、和気、小槻(おつき)、文屋、石川、加茂、 平群(へぐり)、道守(ちもり)、物部、小野、高階(たかしな) などのごとし。然れば、大職冠鎌足公の末葉ならざる人、みだりに 藤原を名乗べからず。他の人は其実名の上にそれぞれの姓氏を冠し て唱ふべし。棟札を出するにも、右に随べき也。又中比より姓名取 失ひたる人は、何れも書べからず。故に藤原山の号を以て藤原の姓 氏とし、諸職人の藤原を名乗といふ俗説のあやまりを考えしるべき なり。
0 件のコメント:
コメントを投稿