2023年1月14日土曜日

匠家必用記上巻七章、八章


七章と八章の
読み下しを紹介
間違いなどありましたら
ご教示願います
七章 尉(じょう)の家書弁
俗間に番匠の宮社の棟札を書するに、何兵衛尉、何左馬尉と書者あり。今按ずるに、官職備考曰、佐馬尉は大従六位に相当り、置正七位上に相当る。左兵衛、右兵衛尉は従六位下に相当たらず、正七位上相当る、とあれば、無官無位の人みだりに尉の字を用いる事あらず。

八章 藤原姓氏の弁
俗説に唐土(もろこし)漢の明帝の時、天竺の番匠、漢とに来り。始て番匠の術を弘む。此時、明帝甚仏法を信じ給ふ故に、番匠互に命じて一宇を建立し給ふ。号て数改寺と云、後に白馬寺と改、山号を藤原寺と云故に、日本の番匠の皆藤原姓也と云。又一説に、日本の職人は何職によらず、藤原の姓氏を名乗といへり。今按ずるに、藤原山の号を以て藤原の姓氏とする事附会の妄説信ずるにたらず。本朝藤原の姓と申は、唐土より渡りたる姓氏にあらず。

人皇三十九代天智天皇八歳大職冠鎌足(かまたり)公に、帝より藤原姓氏を賜。鎌足公は神代天児屋根命二十二代の神孫、中臣御食事大連(なかとみ みけじ おおむらじ)の御子也。きうせ(旧性)は中臣を改て藤原の姓を賜り、内大臣に任じ給ふ、是藤原の始也。故に此御子孫末葉に限りて藤原の姓氏也。他の人は是を名乗事にあらず。然を其姓ならざる番匠、己が姓を捨て、みだりに藤原を名乗は他の姓を盗むの罪也。若(もし)

此事をしらずにして藤原を名ののば早く改むべし。諸職人も又同じ。譬ば清和天皇の御孫、六孫王経基公血脈ならば源姓也。桓武天皇の皇胤高望(たかもち)王の血脈を平の姓と云。天太玉命の神孫也ば忌部の姓也敏達天皇の御孫、井出左大臣諸兄公の血脈を橘の姓といふ。平城天皇の御孫、備中守基主の血脈を大江の姓とす。孝元天皇の皇子、太彦命の血脈は

安信(安倍)の姓也。天智天皇の後胤、夏野公の末葉を清原の姓と云。皆それぞれの血脈を以て、姓名をわかる事也。いかに末世になりたればとて、他姓を以て家姓名とする謂あらんや。愚なりとも是等は弁へ(わきまえ)しるべきこと也。又世俗、源、平、藤、橘の四姓の外には、姓氏なきやうに覚る人有。是此事をしらざるの謂也。万多親王の姓氏録に千百八十二姓出たり。又此後も姓氏有。

今又四姓の外、その一、二をいう時は菅原、春原、有原、永原、和気、小槻(おつき)、文屋、石川、加茂、平群(へぐり)、道守(ちもり)、物部、小野、高階(たかしな)などのごとし。然れば、大職冠鎌足公の末葉ならざる人、みだりに藤原を名乗べからず。他の人は其実名の上にそれぞれの姓氏を冠して唱ふべし。棟札を出するにも、右に随べき也。又中比より姓名取失ひたる人は、何れも書べからず。故に藤原山の号を以て藤原の姓氏とし、諸職人の藤原を名乗といふ俗説のあやまりを考えしるべきなり。

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